取り敢えず、社会人1年目

誰かにとっては平凡で、私にとっては美しい日常が良い。

美しい言葉を紡ぐということ、美しい言葉を消費すること

 心を豊かにするような、そんな言葉を紡ぐ人に憧れる

こんにちは。もうふです。

今日は、美しい言葉を紡ぐということをテーマとして記事を書こうと思います。何故このテーマなのかというと、そういう気分だからです。

22歳の女子はとても気まぐれなのです。(私だけかもしれないけれど…)

 

前置きはここまでにして、早速本題に入ることにしますね。

 

“人の心を豊かにするような、そんな言葉を紡ぐ人に憧れる”

こんな憧れを密かにもつようになったのは、いくつかの出来事が重なったことがきっかけです。

 

ある日、ぼーっとTwitterを眺めていたときに見つけたツイートの言葉。

小説で出合った、心を満たしてくれるような素敵なフレーズ。

何回も繰り返し聴いた好きな曲の歌詞。

 

こんなふうに、理由はとても単純なものでした。

心を満たしてくれるような美しい言葉に触れたことで、私は「周りを幸せにできるような言葉を紡ぎたい」と考えるようになったのです。

日本語というものは、私が思っているよりも美しい言語だった

日本に住んでいる私は、言葉が話せるようになったときから当たり前のように日本語を話していました。

 

幼い頃は意思疎通のためのツールとして使ってきましたが、大学生になってからといものの、私にとってその用途は少し変化したように感じます。

 

綺麗なものを見つけたとき、胸に込み上げるような感動を覚えたとき、大好きな人へ言葉を贈るとき。

 

これらのシーンで、私は一体どれだけ素敵な言葉を紡ぐことができるのでしょうか。

22年しか生きていないから、紡ぐことができる語彙は限られているのでしょうか。

 

それはきっと違うと思います。

生きている年数=言葉に表現できる語彙のボキャブラリーが多いとは限らないからです。

 

ある友人が、“言葉は新鮮なうちに消費するべきだ”と話していたことを思い出します。彼女はとても美しい言葉をつかう人で、私が出会ってきた大人たちよりも上手に言葉を選んでいたように感じます。

私の経験則ですが、その友人以外にも美しい言葉を話す人はたくさんの本を読んでいるということが分かったのです。

 

私は普通の学生よりは言葉を紡ぐことには親しみがあるほうだと思うので、これは事実だと思います。

ただ単に生活している中では出合うことがない言葉を自分がつかうためには、本を読んで、できるだけ多くの言葉に出合うことが大切なのだと思うようになったのです。

 

そもそも日本語は、海外の言葉を直訳するには種類が多く、場面によってつかい分けたりすることが多いように感じます。

それが魅力的なのだと思います。

 

突然ですが、美しい景色を見たときにその美しさをどうやって伝えるでしょうか?

どうせ言葉を発するのなら、私はそれを聞いた人の心を少しでも満たせるような言葉をつかいたいと思うのです。

ネガティブな言葉で溢れているであろうネット社会に、綺麗な言葉が届けられたのなら

インターネットに溢れる記事やSNSでは、日々の苦痛な出来事や誰かの悪いところなどが、稚拙な言葉で綴られていたりします。

 

気軽にツイートができるTwitterでは、特にそういったネガティブな言葉が目立つように思います。

 

誰かの容姿、誰かの行動、誰かの発言。

それらに文句をつけて、拡散する。

このように、日常のストレスを解消するためのツールとして使っている人も少数いるかもしれません。

 

ただ、そんなSNSでも美しい言葉を発信している人は少なからず存在している。

私はそういう人たちにとても心を動かされます。人を心地良くさせるような言葉を紡ぐことができるって、とても素晴らしいことだと思います。

だからこそ、いつか私はそんな人になれたらと思うのです。

 

そんな小さな夢をもっていても、良いかなと思うのです。